藤子不二雄

高校生の時、ぼくは長い休みの間には、必ず上京させてもらっていた。幸いなことに、大田区大森に大叔父が、清瀬市という所には、伯父がいて、何週間も泊めてくれた。つまり、高校時代の東京でのベースはこの2カ所だったわけだ。

高校3年生の夏休みだった。

新宿駅の西口方面に、新宿中央公園がある。今は、新宿の西口と言えば、超高層ビル群や都庁があったりで凄まじいが、1971年頃の西口と言えば、周りは淀橋浄水場跡地で、ヨドバシカメラの本店と、新宿プラザホテルが摩天楼のように、デ〜ンっと一本建っているだけで、高いビルなど何もなかった。

その中央公園の角に、スタジオゼロがあった。

ぼくは、ギャグマンガなら、ギャグマンガを描く先生に見て頂こうと決め、藤子不二雄先生を選んだ。藤子不二雄先生の作品と言えば、上げたらきりがないほどだが、ぼくが、中学生の頃に「おばけのQ太郎」や「パーマン」などで、人気ナンバーワンのギャグマンガ家だった。

スタジオゼロの建物は、ぼくの記憶がいい加減なので、間違っているかも知れないが、一階はレストラン・二階は、なんだったか忘れた。三階にスタジオゼロの扉があり、そこに藤子不二雄スタジオがあった。

三階の扉を開けると、意外にもシーンとしている。廊下のようになっていて、左右と中央に扉があり、左の扉の向こうから、人の声が聞こえてくる。その扉に、「 藤子不二雄スタジオ 」の文字が・・。ノックして扉を開けると、ざわざわしていた声が一瞬静まり、ものすごい視線を感じた。

「岐阜から出てきました。藤子不二雄先生に、マンガを見てもらいたくて・・。」

そう言った途端、ため息のようなものが漏れ、また元のように、ざわざわとした空気に戻った。どうやら、締め切りの修羅場だったらしい。ぼくの声を聞いても、誰も相手をしてくれない。そこは、マンガ家の仕事場というより、まるで忙しいビジネスオフィスのようだった。

ところが、たくさんの人が、原稿のやりとりをしている中、一番奥で、口にパイプをくわえて、おいでおいでをしている人がいる。それも二人。写真で見たことがあった。藤子不二雄先生だ。

ぼくは、アシスタントの人たちの後ろをすり抜けて、先生の机の横に行った。先生の机の上には、原稿があったのだが、残念なことに、ぼくが近づくと、上に白い用紙をそっと置かれて、なんの原稿だったか見ることが出来なかった。

ぼくは、「先生・・。」と言った後、ちょっと困ってしまった。だって、顔が二つあるからだ。二人で一つのペンネームだから、当たり前なのだが、ぼくにとってみれば、藤子不二雄先生は、ひとつの人格である。それなのに、顔が二つあるので、どちらに話しかければいいのか、とまどってしまったのだ。

しかし、すっと手が伸びて、原稿を受け取って下さったのは、藤子不二雄先生だった・・・。いや、そのうちの「藤本 弘」先生だった。

とても忙しかったにもかかわらず、ぼくのマンガをぱらぱらと見て下さったが、「う〜〜ん」と言われて、あとは言葉がなかった。そして、次に、隣の「我孫子 素雄」先生に渡された。しばらくすると、「いいんじゃない。がんばりなさい」という言葉。それ以上はなかった。

ぼくは、そのまま、しばらくスタジオの中を見学させてもらった。でも、頭の中は、真っ白。あまりにも、頂いた言葉が少なかったからだ。後々、その原因は分かったが。やはり、ぼくの原稿の内容が・・・。

『ある発明家が、とんまな助手とロボットを作っているが、失敗の連続。そのたびに、義足や義手、義眼や人工心臓などの手術を受けていくうちに、博士自身がロボットになってしまい、助手に、リモコンで動かしてもらっている。』と、いう落ちだった。

ちょっとグロなところもあり、藤本先生は「う〜ん。」とうなってしまわれ、我孫子先生は「がんばれ。」と、言って下さった。これは、両先生の志向の違いから来るものだったんだろう。しかし、当時、高校生のぼくの頭では、そんなことまでは、考えられなかった。がっくりと、肩を落とし、目の中はもう、ウルウルになっていた。

この後、スタジオゼロで、ぼくにとって素晴らしいことが起きるが、それは、次回で。

藤子不二雄先生には、その後もいろいろな席で、お会いすることがあった。スポーツマンのような我孫子先生と、どこかのやさしいお父さんのような藤本先生。後に、コンビを解消されて、藤子不二雄Aと藤子不二雄Fとなられたが、ぼくにとっては、どこまでいっても、二人は一人でしかない。

平成8年(1996年)、藤本先生が亡くなられた。62才だった。