手塚治虫

ああ、こんな偉大な人を、ぼくの交友録に載せてしまって、いいものだろうか。

しかし、手塚先生を抜きにしては語れない。なぜなら、自分が、マンガを描きたいと思ったきっかけは、先生のジャングル大帝を見たからだ。

 

手塚先生に初めてお会いしたのは、ぼくが、高校2年生の夏だった。

岐阜の田舎で描き上げた原稿を持って、練馬区富士見台にあった虫プロダクションを、ぼくは訪ねた。

前日に電話をかけ、手塚先生のマネージャーと、時間の約束をする。ところが、約束の時間になっても、先生は仕事場に現れない。しばらくすると、マネージャーが、汗をふきふきやって来た。

「いゃ、すまない。やっと、見つかってね。もうすぐ来るから。」

「どうしたんですか?」

「あははっ。行方不明になっていたんだよ。」

手塚先生は、翌年開催される、大阪万博の美術デザインを担当していて、前日には、大阪にいたとのこと。そして、昨日のうちに東京に戻ってくるはずが、突然、行方不明になってしまったということだった。

それが、実は、大阪から近い宝塚の先生の実家に、こっそりと帰ってしまっていたのだが、編集者が、それを見つけだし、無理矢理東京へ連れ帰ってきたのだった。

 

もうすぐ、あこがれの手塚先生に会える。始めに、何て挨拶をしよう・・などと、ハラハラして考えていた。

すると、ドアが、バンッと勢いよく開き、何人かの人たちと一緒に、先生が入ってきた!

 

先生は、部屋の一番奥の大きな机に着き、一緒に入ってきた人たちから、原稿らしきものを受け取ると、足を大きく組んで、それを見始めた。

そして、いきなり、その束を机の上に叩きつけ、

「誰ですか!こんな絵を描いたのは!ぼくの指定と、全然違うでしょ! もういいです。皆さん帰ってください。もう、ぼく一人で描きます。帰ってください!」

、、、、と、甲高い声で、怒鳴り始めた。

周りの人たちは、「すみません。」「すみません。」と、くり返し、そそくさと部屋から出て行ってしまった。

その様子を見ていたぼくは、身動きも出来ずにいて、結局、手塚先生と二人きりになってしまった。しかし、先生には、ぼくの存在など全くなく、机の上に叩きつけた原稿を束ね直し、一番上の一枚を取ると、机の引き出しからペンを取り出して、インクを付け、カリカリカリカリっと、線を入れ始めた。

吹き出しだけで、何も書いてない、まっ白なところにまでも、いきなり人物を入れ始めたのだ。

神業だ! まるで、奇蹟を見ているようだった。

・・・・っと、突然、誰かにポンっと、肩を叩かれた。マネージャーだった。

「山田くん。今日は、もうダメだから、明日にしてくれないか?」

「はい、そうします。」

こうして、ぼくは、一言も話すことなく、外に出てしまった。

 

いつの間にか、外はすごい雨が降っていて、カミナリも鳴りだしていた。

マネージャーは、ぼくに

「すまないね。先生、ご機嫌悪くて。ご飯をごちそうするよ。」と言って、近くのレストランに連れて行ってくれた。

考えてみたら、お昼ご飯も食べていないまま、何時間も待たされて、夕方になっていたのだ。

 

ご飯を食べている間に、ますます、雨が強くなり、風も出てきた。

どうやら、何十年ぶりかに、東京を直撃する台風のようだ。

「これじゃあ、帰れないね。泊まっていくかい?」

「でも、泊まるっていっても・・・・。」

「だいじようぶ。この富士見台には、先生のアシスタントが一杯いて、泊まる所なんて山ほどあるから、、、あっ、ちょうどいい。あそこに、鈴木氏がいるから頼んであげよう。」

鈴木という人は、後に『鳴島生』というペンネームで、マージャンマンガなどを描いていた人だ。その頃は、手塚先生のアシスタントを辞めて、友人たちと、マンガ制作集団を作っていた。

「山田ゴロくんか。いいよ。おいで、おいで。」

と言って、快く連れて行かれた所は、Vプロダクションと張り紙のある、オンボロアパートの一室だった。

しばらく、鈴木さんと話をしていると、ビショビショに濡れて、元気のいい青年が「ただいま。」と、帰ってきた。

「おお、林くん。こちら、山田ゴロくん。岐阜から出てきたんだって。高校生だ。」

「どうも。林ひさおです。よろしく。」

「今日、先生がさ・・・。」「そう。あはははっ。」

ぼくは、二人の会話を、ぼうっとして聞いていた。昼間の緊張が、今になって解け始め、もう、眠くて仕方がなかったのだ。

ソファーで、どれぐらいウトウトしたのか、なにかの視線を感じて、ぼくは目が覚めた。

目の前に、雨に濡れてブルブルと震える、青白い顔の男が立って、ぼくの顔を、のぞき込んでいる。

「だれ?」

「山田ゴロです。お邪魔しています。」

「そこ。ぼくの・・・寝床。」

「あっ、そうなんですか。」

ぼくが起きようとすると、隣の部屋から鈴木さんが、

「長谷川くん。すまん。今晩だけ彼に貸してあげてよ。きみはこっちで。ところで、今日は、どうだった?」

「だめでした。おもしろくないって。見る目がないんですよ、みんな。」

編集部へ持ち込みをしているらしいこの人は、後に『博多っ子純情』で大ブレークする、長谷川法世さんだった。

 

台風一過、明くる日は、ギラギラの太陽が照りつけていた。

ぼくは、もう一度虫プロの前にいた。しかし、その日、手塚先生は徹夜をしたので、仕事場には現れなかった。 そのまま、ぼくは岐阜に帰ってしまい、とうとう、自分のマンガを見てもらうことができなかった。

その後、手塚治虫先生と、お会いする機会はなく、高校を卒業し、中城先生のアシスタントを経て、石森プロに入った。

 

1980年。

石森先生のマンガ家生活25周年記念パーティーが、新宿の、ハイアットビルで催された時のことである。

ぼくは、開始時間の5分ほど前に、ホテルの入り口にいた。急いで会場に向かおうとすると、なんと、入り口のドアの所で、手塚先生と、バッタリはち合わせしてしまったのだ。

「どうも。」と、一言挨拶をされて、ぼくも、慌てて

「どうも。石森プロにいました、山田ゴロです。」と、挨拶を返した。

「先生。どうぞ、こちらです。」

そう言って、会場まで、ご一緒したが、

「どうも、どうも、どうも。」と、先生は、「どうも。」の連発で、そのまま、会場の中に消えて行った。

パーティーが、そろそろお開きになる頃、ぼくは、トイレに立った。

お酒も入っていて、とても気持ちがいい。そして、オシッコをし始めた時だった。ぼくのすぐ横に、なんと、手塚先生がやって来て、シャーッとばかりに、オシッコをし始めたのだ。

『ひええっ、神様もオシッコをするんだ。今、ぼくは、神様と連れションをしてる〜!』

頭の中が、まっ白になっていく。ぼくの方が、早くオシッコをしていたのだが、グッと力がこもったのか、止まっている。いや、実は、息もしていなかったのだ。

しばらくすると、手塚先生のオシッコが終わった。ぼくが、先生の方を見ると、

「よっ、どうも。」と、笑いかけ、軽くポンッと、肩を叩いて出ていった。

ぼくの 身体から力が抜けて、止まっていたオシッコが、また出始めた。なんだか、すご〜〜〜〜く、徳をした気分になった。顔がニヤニヤしている。叩かれた肩のところが、心地いい。

でも、『手を洗ってから、肩たたけよなぁ。』なんて考えていた。

後にも先にも、手塚先生との思い出はこれだけである。時間にして何分だろう。ぼくにとっては、貴重な思い出の時間だ。

今でも、友だちに、

「ぼくは、手塚治虫と、連れションをしたことがあるんだ。」って、話しているのだ。