中島昌利

ありがたいことに、ぼくにはたくさんの「友達」がいる。そして、そのたくさんの友達の中でも、中島くんは異彩を放つ。

 

ぼくが、中島くんと初めて会ったのは、徳間書店の「テレビランド」という雑誌に、「イナズマン」を描いていた時だった。若干二十一歳。

1974年当時、テレビランドの編集部は、徳間書店の本社ではなく、東京新聞の本社ビルの中に、間借りしていた。

それは、原稿の〆切日のことである。ぼくは、徹夜して原稿を描き、残すところ仕上げだけになったのだが、原稿が上がってから、編集者に渡すまでの時間に、きっと眠くなってしまったり、気力が続かないような気がしていた。

そこで、思いついたのが、『編集部で仕上げをやって、その場で原稿を渡そう。』という、名付けて「編集部で仕上げをやって、その場で原稿を渡そう。」作戦だったのである。

新聞社の入り口は、いつも開いているので、いつ行っても編集部に入ることができた。今から考えると、ずいぶん物騒だと思うが、それだけ、おおらかだったのだろう。そういう時代だった。

朝の7時頃から、まだ誰もいない編集部で、机を借りて、ぼくは仕上げを始めた。原稿の内容は、今でも、はっきりと覚えている。イナズマンの「イナズマン死すータケバンバラの巻き」だ。

編集者が出社してくる時間は、10時から11時頃というのが普通で、それまでは、まったく静かなものである。

ところが、9時頃に、丸顔メガネの若い男が編集部に入ってきた。ぼくを見て、「あっ、どうも。。。」と、挨拶をしたまま、あとは何も言わず、近くにあったマンガ本を取って、パラパラと見始めた。封筒を持っているところを見ると、同じマンガ家らしい。

ぼくは、気にせず、仕上げを続けた。

しばらくして、背後に、ものすごく視線を感じて振り返ると、丸顔メガネがニッコリしながら、

「ああっ、イナズマンだ。じゃあ、山田ゴロくん?」

「はい。」

「ぼく、中島昌利です。」

「あっ、キューティハニーを描いてる中島くん。」

同じ雑誌で描いていても、マンガ家同士が直接知り合える事は少ない。出版社の忘年会や、何かのパーティぐらいなものだ。それに、マンガ界は縦社会のようなところがあって、先生とアシスタントの関係、アシスタントの先輩、後輩と、そんな人間関係がその頃は、普通だった。

「ぼく、すがやくんのところでアシスタントをしていたんだよ。だから、山田くんのことはよく知ってる。」

「ああ、そうなんだ。」

そんなふうに、じつに自然に話しかけてくる。年は、ぼくより一歳上なのだが、同じ昭和27年生まれ。

「どうして、こんなに早く編集部に来たの?」と、たずねると、

「原稿、取りに来てもらうより、編集部に来て、直接渡した方が早いでしょ。その方が楽だし、他の仕事ももらえるかもしれないし。」同じようなことを考える奴だなあっと、ぼくは、思った。

今思えば、ぼくたちには、この感覚が一番合ったのかも知れない。

それからは、なにかにつけ、行動を一緒にするようになった。中島くんがオーディオにこり始めると、ぼくもオーディオにこり、バイクに乗り始めると、ぼくも乗り始め、コンピューターを始めると、ぼくも始め・・。 ( ひっよとして、後追いなのか?? ぼく。。。 )

遊びも仕事も、いつも一緒だった。ぼくが結婚してからも、中島くんが結婚をしてからも、ぼくらは、いつも一緒だった。そして、それは、今でも変わらない。

 

中島くんには、「適当」という言葉が、よく似合う。何事にも、すごく大雑把なのだ。彼の「適当」、それは仕事に対しても言える。

ぼくが、アパートを訪ねていった時のこと。

編集部から、カット依頼の電話があり、寸法と、内容の打ち合わせをすませ、「さてと・・・。」と、仕事を始めたのだが、肝心の原稿用紙がない。

ところが、彼は、少しもあわてない。新聞のチラシ広告を裏返し、だいたいの大きさで下書きをして、ペン入れを始めた。

「おい。こんなんでいいのかよ。」と、言うと、

「印刷されれば、どんな紙に書いてあったかなんて、関係ないでしょ。」と、あっさり。

確かにそうだ。ぼくは、思わず、納得。彼にはへんな説得力があった。

しかし、失敗もある。

50ccバイクを、ただのような値段で2台買ってきて、1台にまとめた。「ニコイチ」のバイクだ。 それで、編集部にも、ぼくの家にでも、どこにでもどんな時間でも、かまわずやってくる。 あまりにもボロボロで、うらやましくもない。ただ、その便利さには目を見張った。

やがて、バイクもパワーアップして、250ccに、、、。しかし、オンボロ度もパワーアップ。 しかも、ガソリンではなく灯油で、動いているという、、、。そんなバイクで、ある日、箱根を超えて、高速を使わず、広島の知人を訪ねるというのだ。

ところが、帰ってきたときは、電車だった。どうしたんだと聞いたら、

「箱根の山の中で、いきなりバイクのタンク・キャップがぶっ飛んだ。爆発するおそれがあるので、ナンバーを外してバイクは捨ててきた。」と、涼しい顔。

適当なバイクで、燃焼するなら、燃料は何でもいいなどと、じつに 適当で、結果、裏目に出たのだが、その対処も、なんとも大雑把であった。

だが、ある日、なんと、発売されたばかりの、スズキ刀1100ccにまたがりやってきた。 それに触発されて、とうとう、ぼくも妻も免許を取って、限定解除までしてしまったという有様。 そして、妻はニューKATANA750ccに乗り、ぼくはGSX-R750cc限定車に乗るようになった。

それからの ぼくたちは、何度ツーリングに行っただろう。 マンガを描く時間以外は、バイクの上で、どこにでも、気ままに出かけて行ったものだ。

 

中島くんの周りには、いつも、人がいっぱいいた。 それは、彼の丸い風貌と、おっとりとした性格のせいかも知れない。誰もが、安心して頼っていけるような安心感があるのだろう。だから、彼の家には、居候が住み着いた時期があったほどだ。

人生に於いて、本当の親友というものを得ることは、簡単ではないと思う。なにかがあって、「裏切られた。」と言うことが、何度もあり、ぼくも、少なからず、彼を裏切っている。しかし、裏切られた明くる日には、「よっ!」と、笑って会うことができる。

親友というものが、こういうものであるという基準はないが、ぼくは、はっきりと感じている。彼は、ぼくの親友だ。

これからも、ずっと、ぼくと友達でいてくれるだろう。ひとつ、よろしく!