三浦隆夫

人生は、山あり谷ありである。

ぼくがマンガ家になれたのは、強力な引力に、引き寄せられるかのようだった。それは、高校に入学した15歳の時から始まって、しかも、レールに乗せられたように、物事が進み、気がつけば、マンガ家になっていたのだ。

しかし、そんな「運」のようなものも、長く続くわけがない。

 

三浦さんは、ぼくが石森プロにいた頃、テレビランドの編集だった。「秘密戦隊ゴレンジャー」や「がんばれロボコン」などを、描いていた頃だったと思う。

若い頃からギターがうまく、スタジオミュージシャンをしていたこともあったと聞く。しかし、結婚を機に、徳間書店に入社。テレビランドの編集となった。

ぼくよりも、5歳ほど年上だったが、

「マンガのことはよく分からない。ゴロちゃんにお任せだ。」と、言って、打ち合わせと称しては、週一回、新宿のゴールデン街という、知る人ぞ知るところで、朝まで酒を酌み交わしていた。

話し上手ではないが、聞き上手で、何でも感心して聞いてくれる。いつ会っても、ぼくを、気持ちよくしてくれる。そんな人だった。

あるとき、友達とゴールデン街で飲んでいて、誰かが

「おい、誰か足りないぞ・・・・あっ、三浦だ。」と、叫んだ。

「そう言えば、どうして居ないんだ。よしっ、聞きに行こうっ!」と、まったく、酔っぱらいのバカな考えで、夜中の、12時もとっくに過ぎているというのに、三浦さんの家まで行くことになった。

しかし、手ぶらで行くのは失礼だから、なにか土産を持って行こうということで、開いている店を探し、スイカを買った。・・・・・・12月の事である。

どこをどう行ったのか、、、、。今、思い出そうとしても、よく、思い出せない。気がつけば、三浦さんのアパートの部屋の前に立っていた。

ドアを、ドンドンとたたき、「こらーっ、開けろー!!」

「な、なんだ。ゴロちゃんたちか。何でこんな時間に。頼む、静かにしてくれ。」

そう言うと、ぼくらを、部屋に入れてくれ、

「ほら、お土産だ。」と、スイカを差し出すと、

「真冬にスイカか!!」と、半分あきれて、「アホウ。」と、言いながら、受け取ってくれた。

「どうして、飲みに来なかったんだ。おれたちは、待っていたんだぞっ!」

「そうだ。お前が来ないから、こっちから来てやったんだ。酒をだせー!!」

もう、なんだか、めちゃくちゃなことを、言っていたのだけ、憶えている。

すると、部屋の奥の扉がスルスルっと開いて、「いらっしゃい。」と、あきらかに、今まで寝ていたという感じで、奥さんが出てきた。

そう言えば、まだ新婚2年目ぐらいだったのだ。おまけに、腕には、生まれたばかりの赤ちゃんが・・・・・。

しまったっと思ったが、もう遅い。

「すみません。すぐ帰ります。」と、言うと、

「なに言ってるんだ。せっかく来てくれたんだ。良美、肴をつくってくれ。」そう言って、酒を用意し始めた。

奥さんは、手慣れたもので、

「なにもありませんが、、、。」と、スルメをお湯で戻し、薄く醤油で味付けた肴を作ってくれた。

それから、しばらくすると、

「よし、これからまた、新宿に行こう。」と、ぼくらを引っ張って、そのまま、朝まで飲み明かしてしまった。

本当に、人付き合いのいい人で、他人に対して、嫌な顔を見せたことがなかった。ぼくの担当を変わってからも、そんなつきあいは、ずっと続いていたのだが、ぼくが結婚をして、酒を飲まなくなり、次第に、会うことも少なくなっていった。

そして数年後、ある日、徳間書店を退社された。

ぼくも、石森プロから独立し、一人で歩き始めていたが、石森先生原作のマンガを多く描かせてもらっていた頃だ。

でも、その頃のぽくは、それ以外のマンガも描きたくて仕方がない。「スランプ」なんて言うと、笑われるかも知れないが、何かを変化させようとすると、どこかに、かならず歪みが出てくる。 それは、人生に於いても同じで、何も出来ないし、方向性がつかめない時期でもあった。

そんなところへ、電話がかかってきた。

「ゴロちゃん。元気?」

それは、三浦さんだった。

「今ね、フリーなんだけど、講談社で、テレビマガジンの編集をやっているんだよ。それでね、読者ページなんだけど、そこのイラストを、描いてもらえないかな?」

「やりますっ!」

わずか、4ページのイラストだったが、この電話がきっかけで、その後、ぼくは、20年近くずっと、テレビマガジンで、マンガを描かせてもらっている。

始めは読者ページ。次には、もう、タイトルさえ忘れてしまったが、アニメのキャラクターもの。そうしたものがしばらく続くと、

「あのね。3ヶ月だけなんだけど、スーパーマリオのマンガを描いてくれないか。面白ければ、そのまま続けられるかも知れないが、その場合は、半年かな。」と、頼まれた。

そうして始めたスーパーマリオは、もう10年以上も続いている。

ところが、途中で、いきなり担当が変わった。そんなことはよくあることなので、他の人の担当になったのだろうと、ぼくは、思っていた。しかし、そうではなかった。噂は、どうやってぼくの耳に届いたのか、もう、忘れてしまったが、三浦さんが、アルコール依存症で入院したということだった。

それから、また、何年かして、ある日いきなり、三浦さんから、電話がかかってきた。

「ゴロちゃん。元気か? ぼくは今、リハビリ中だ。病院がゴロちゃんちの近くでね。ときどき、訪ねようかと思ったんだが、悪くてね。」

「何を言っているの。いつでも来てよ。」

「ありがとう。そう言ってくれるのは、ゴロちゃんだけかもな。実は、頼みがあるんだ。プロのマンガ家に、こんな事を頼んでいいのか分からないけど、ぼくの年賀状のイラストを、描いてくれないかな?」

「もちろん、OKですよ。どんな絵にする?」

「じゃあ、これから近くで会わないか。家族の写真を渡したいんだ。それを、イラストにしてくれ。」

こうして、再会した三浦さんは、痩せこけて小さくなっていた。

「はやく元気になって、家族に心配かけないようにしなくちゃ。おれ、がんばってるんだよ。ほら、これが良隆だよ。あの時の赤ちゃん。」

そう言って、写真を差す指が、痛々しいほど、細く震えていた。

 

それから何年か、毎年11月頃になると電話がかかってきて、年賀状のイラストを描かせてもらった。

ところが、ある年の暮れ、欠礼のハガキが届いた。

「三浦隆夫は、昨年7月に・・・・。」

なんということだ、、、、。

そう言えば、去年の暮れに、イラストを頼まれなかったぞ。頭の中がぐらぐらとした。もう、亡くなってから1年半も経っている。

アルコール依存症になってから、リハビリ生活をしているうちに、友達もいなくなり、きっと、さぞ、寂しかっただろう。誰もいない家で、誰にも看取られることもなく、静かに逝ってしまった。

『そう言ってくれるのは、ゴロちゃんだけかもな。』

そう言った、三浦さんの声が忘れられない。ハガキを受け取った日の夜、ぼくは、近くの公園に行って泣いた。

どこまでも、人に優しく、どこまでも、遠慮がちな優しい人だったけれど、ぼくのマンガ家人生の中に、カリッと爪痕を残して、彼は、静かに逝ってしまった。