新聞に 掲載されて 数ヶ月。 僕宛に 手紙が 来た。 「『高一コース』学習研究社、編集部 」からで あった。 「岐阜日々新聞を 拝見しました。今度、取材を させてもらえませんか ?」 ありゃりゃ、また、取材の 申し込みだ。 東京から、わざわざ 編集者が 取材に 来るなんて、嘘みたい ! その日、やっぱり、父は 会社を休み、母は パーマに 行き、犬は預けられ、姉は部屋を掃除しまくり、弟はツギのあたった半ズボンをツギのあたった長ズボンに履き替え、僕は、漫画の 原稿を 机の上に 並べ、漫画家気取りに なっていた。僕の事は、7 ページに渡って掲載され、数点のカットも使われた。自分の絵が、雑誌の印刷物に なったのは これが 初めてだった。 今度も、学校や、近所で 評判に なった。 ところが、さすが 雑誌。 九州や 秋田や いろいろな人から、手紙が 来た。 「 頑張れ。」「 きっと、漫画家になって。」「 応援します。」 それから、数ヶ月して、学研から、7 ページ分の 原稿料として、5 万円が 送られてきた。 えっ ? どうして ? 僕、何も やってないのに、原稿料が もらえるの ? ひょっとして、カットの代金 ? 何でもいいや 。生まれて初めての原稿料だ ! その頃のアホ高校の授業料が、一ヶ月 4500 円だったから、ほぼ一年分だ。東京・岐阜間なら、新幹線で 5 回は往復できる。 とにかく、大金 だった。 周りの 僕を 見る目が、またまた 変わっていった。 でも、僕には 不満が 残った。 漫画を描いている事が珍しいから、取り上げられているけれど、僕の漫画が認められた訳ではない。 モンモンとした 時間が、過ぎていった。 そして 夏、父に 呼ばれた。 父の 知人で、歯医者を している人が いた。 その人の弟が、小学館で漫画の編集をしているそうで、僕の漫画を見てくれるという話だった。 父は、僕に 会いたいか ? と聞いた。 僕に、断る理由など ない。 何か 素晴らしい 予感が、僕には あった。 ・・・・そして、この時、父には 父の 考えも あったのだ。 夕立の 降った夜、父の カブの 後ろに 乗って、その 人の 待つ家へ 向かった。 カエルの声とホタルの乱舞の中、父のカブは走った。 僕は、カチンコチンに緊張していた。 「私が、山本順也です。最近まで、少年サンデーの副編集長をしていましたが、今は、少女コミックの 副編集長に 移りました。」 本物や〜 ! この人、本物の 編集者や〜 ! ! 15 才の僕は、何をどう話したのか、ただただ、うれしくって、エヘラエヘラ笑っていたような気が する。 ところが、ここで、父が 突然 変な事を 言い出した。 「 はっきり言って下さい。こいつに、才能はありますか ? このまま、頑張らせれば、漫画家になれますか ? もし、山本さんの目から見て、駄目なら駄目で、はっきり言って欲しい。 諦めさせるには、早い方が いいんです。」 こ・この オヤジ。 なんてことを ! 僕を、諦めさせるために 来たンかい ! 「・・・では、はっきり 言いましょう・・・・・・・。」 |
つづく。 |
つづき・・・・ 「では、はっきり言いましょう。 大丈夫ですよ。もっと、勉強させてやって下さい。 出来れば、ゴロちゃん、東京へ出ていらっしゃい。今度の冬休みにでも・・・・。 いろいろな先生を 訪ねて、仕事の 現場を 見る事も、良いこと ですよ。」 頭の 中で、出航の ドラが、ガ〜ンガ〜ンと 鳴ってる。 体中の 力が 抜けて、涙が ポロポロ こぼれた。 うれしいときにも、涙は 出るんだ。 父は、山本さんと、お酒を飲み始めた。 僕は、出されたご馳走ものどを通らず、わずか、三人前しか 食べられなかった。 帰りは、フラフラになった父に乗せられて、カブで二人で帰った。(あぶないって) 吉永小百合の「いつでも夢を」を 大合唱しながら・・・・。 周りの 田ンぼでは、カエルたちが、「ゲゲゲの唄」で ぼくらを たたえてくれた。 鬼太郎の 気持ちが よく 分かった・・・・・・。 ホントに 続く |
第六回:「それから・・・」 |
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